私は、子どもの頃、数か月に1回ほどのペースで、母と一緒に地元の大学病院の眼科へ通院していた。私は、生まれつき弱視で、裸眼視力は0.2ほどしかなく、しかも都合の悪いことに、私の眼は、めがねをかけても視力が0.1程度しか上がらなかった。もちろん、0.1でも視力が上がると生活のしやすさが全く違うので、少しでも視力を上げるために子どもの時からずっとめがねをかけていた。昔は幼稚園や小学校低学年でめがねをかけている子は珍しく、めがねをかけているだけでよく周りからからかわれたものだ。その視力も、身体の発達とともに今後どうなっていくかわからないということで、定期的に大学病院で診てもらっていたのである。
私は、視力検査がとても嫌いだった。縦長の長方形をした視力測定器(誰もが視力検査時に見たことがあるだろうから説明はいらないかもしれないが、念のため説明しておくと、一部分があいている黒色の輪っかが多数表示されており、輪っかの大きさが上から下へ行くにしたがって段々小さくなっていく。看護師の手元のボタンで特定の輪っかだけ光るようになっており、被検者は光っている輪っかの空いているところを答えることで視力を測定する。)を前に、隣りにいる被検者は、だいたい真ん中より下から、「これはどこが空いているかわかる?」が始まるのに、私はいつも1番上から始まるのであった。そして、1段、2段と下がっていき、すぐに「わかりません。」がやってくる。私にとって驚きだったのは、視力測定器の1番下の光っているところを示された隣りの人が、輪っかの空いている部分を即座に答えることであった。これにはいつも信じられない気持ちにさせられた。私には、そもそもそこに何かが表示されていることすらわからないというのに(ただそこが光っているということしかわからない)、その何かを認識したうえその何かがない(あいている)箇所を答えるなんて。しかも、私の視力検査は、裸眼視力と現行めがねによる矯正視力の測定の後に、少しでも視力が上がるレンズがないかを試すため、「こっちのレンズとさっきのレンズだったらどっちがよく見える?」という試行が繰り返される。しかし、当時も今も私の視力を大幅に上げるレンズは見つかっていない。このためいつも答えは「あまり変わりません。」となる。こんなことをしているので、私1人が視力検査をしている間に、隣りの視力測定器ではだいたい3~4人くらいが入れかわり立ちかわり視力検査を受けては去っていくというのが恒例であった。こうして、私にとって視力検査は、自分が他の人より劣っているのだとコンプレックスを否応なく感じさせられる場であった。
また、大学病院の待ち時間はとても長く、病院の長いすに座り、母の隣りで延々と待つのも退屈だった。長い時間待って、視力検査やその他の検査をして、また長い時間待つ。それからようやく医師との診察があり、終了となる。私はまだ小さかったので、医師の診察にはいつも母が付き添う。ある時、長い待ち時間の後の診察時に、医師が母に向かって、「この病気でこれだけ見えるのはよく見えるほうです。奇跡といってもいいくらい。お母さん、この子は医者にだってなんにだってなれますよ。」と話したことがあった。私自身はよく覚えていないのだが、母は今でもこの医師の言葉を思い出して私に話すことがある。あの言葉に救われ、それを1つの支えに子育てをしていたのだそうだ。考えてみれば、先天的に弱視のわが子の隣りで待つ病院の待ち時間は、心配と不安とやりきれなさとで、私より母のほうがもっとずっと長く感じられたことだろう。
母は、大学病院の診察が終わると、帰りにいつも病院の売店に立ち寄り、飲み物と好きな絵本を1冊買ってくれた。私は、本を買ってもらえるのが嬉しく、いつも同じシリーズの小さな絵本を1冊選んだ。大学病院へ行くのは退屈でつまらなかったが、好きな絵本を1冊買ってもらえるため、私にとっても病院通いはただ苦しいだけの行事ではなかった。
今から振り返って、私にとってありがたかったと思うのは、私をいつも診てくれた医師が私を大人扱いしたことであった。その先生は私を決してかわいそうな子どもという接し方をしなかった。それどころか小学生に対する接し方としては少し厳し過ぎるようにすら感じた。その先生の態度からは、「これくらいの障害なんて関係ないぞ、何の問題もないんだぞ。」という無言のメッセージを感じた。おかげで私は自分に同情せずに、何かがうまくいかないときに自分の視力を言い訳にすることなく、これまで生きることができたのだ。

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