私は、子どもの頃、週に1度、兄と一緒にバスでスイミングスクールへ通っていた。しかし、兄は小学校を卒業するタイミングでスイミングをやめてしまったので、その後は私一人で通うことになった。これにより、もともとスイミング自体苦しかったのに、バスの行き帰りも暇でつまらないものになった。
そんな時期に、プールへ向かうバスに私の同級生の3人組と同乗したことがあった。彼らは、いつもは私と別の曜日にスイミングへ通っていたのだが、その週だけは何かの都合で私と同じ曜日になったのである。私はその3人組と特に親しいわけではなかったから、その日も私はバスの座席に座ってぼーっと窓を見ていると、バス最後尾の広い座席を陣取っていたその3人組が私に話しかけてきた。
私が仕方なく彼らの会話に加わって適当に相槌をうっていると、何かの話の流れで、「家でテレビをどのくらいの音量で見ているか」という話題になった。私が最初に音量を尋ねられたため、正直に「40くらい」と答えた。テレビのリモコンには音量の+-ボタンがあり、これを押すと、テレビ画面に音量を示す数値が出て音量を調節することができる。私が答えたのは、家でテレビを見ているときのこの音量を示す数字のことである。
私の答えを聞いた3人組のうちリーダー格の男の子(リーダー格だけに3人横並びの真ん中に座っていた)が好奇の表情を浮かべながら両隣りにいる2人と顔を見合わせた後、音量が大きすぎると言っておもしろそうに騒ぎ立てた。その後、リーダー格から順に3人組がそれぞれの音量を発表し合った。彼らが発表した数値はどれも15~25くらいのものであった。
このテレビ音量発表会の結果、私の家では、普通の家の2倍近くの音量で聞いているらしいことがわかった。おそらく私の両親が大きな音でテレビを見るのが好きだったからだと思う。もちろん、テレビの種類によってそもそも数値が示す音量自体が区々であった可能性(同じ10という音量でも音量が違っている可能性)もあるが、3人組は同じような数字を言っていたし、私も現在は20くらいの音量でテレビを見ており、実家に行くとテレビの音量が大きいと感じるので、当時の私の家の音量が相当大きかったことはまず間違いないだろう。
そして、テレビ音量発表会の後は、3人組による私へのからかい討論会が始まった。当時の私はそれがとても嫌で心が苦しく、自分だけおかしな人間であるように思ったものである。それでこのことを今でもよく覚えているのだ。日本特有の事情というわけでもないだろうが、小学校の頃、みんなと違うところがあると、後ろ指を指してからかったり、ひどい場合にはいじめたりするような風潮が少なくとも私の子ども時代にはあったように思う。そこには異分子を排除しようとする同調圧力のようなものが確かに存在した。私は、生まれつき弱視で、小さい時からメガネをかけており、当時はまだそのような幼年でメガネをかけているのは珍しかったので、それだけでよくからかわれたりしたものだ。感受性の強かった私は、そのような視線をいつも感じながら子供時代を過ごしてきた。
しかし、今から振り返ると、テレビの音量が大きかろうが小さかろうが何ら大した問題ではない。そんなものは周囲に迷惑を及ぼさないレベルで、個人が好きに選択すればよいものだ。当たり前だが、音量の小さいほうが偉いなどということはない。しかし、その3人組はテレビの音量について少数派であるというその事実だけで私をしばらくの間からかったのである。
これは、その3人組が特別悪い性格の子どもたちであったということではなく、おそらくほとんどすべての人間が、自分たちと違っている人を拒絶し排斥しようとする性質をもともと持っているということを示すものではないか。「類は友を呼ぶ」ということわざがあるが、反対解釈すれば、「類でないものは友としない」、そして、友としない分には別に構わないけれど(誰とでも仲良くなる必要はない)、さらに進んで「類でないものは敵とみなす」ということも人間の性質として暗示しているように思う。
こんな子ども時代のエピソードやことわざから帰納しなくても、人間同士が異分子を排斥しようと争う性質を持っていることはこれまでの人類の歴史が証明している。そして、人間がそのような性質を本来的に持っている生き物であるからこそ人間の叡智というものが必要になってくるのだろう。
現在、ダイバーシティ&インクルージョンという考え方がようやく広まりつつあるが、とても大切な考え方であり、このまま広く浸透していけばよいと心から思う。もしも同調圧力が人間の本質に根差したものであるとするなら、それを反対に利用すればよい。すなわち、ダイバーシティ&インクルージョンという考え方がスタンダードになれば、今度はそれが同調圧力となって機能し、異分子を排除するという行為が抑制されるはずである。最近、「あれもダメ、これもダメと言われて息苦しい世の中になった。」という意見を時々聞くけれど、それが、誰かを傷つけかねない言動がしづらいという息苦しさであれば、それは鈍感な社会から敏感な社会になったということであり、人類の叡智に基づく進歩と考えて受け入れなければならない。以上、今回は、テレビの音量問題からD&Iを考えてみました。
